「うぇるかむ・とぅぅ・ざ」の後に続く言葉は?
「ジャングル?」ぃぇぃぇ「ブラックパレード」です。
ガンズも好きですけど、やっぱりマイケミです。去年ジャパンツアーもやりましたね。横アリ行きたかったです。
残念ながら昨年ドラムのマイケルが脱退(くび?・解雇?)しましたが、この曲は間違いなくマイケミの代表曲です。この曲でMy Chemical Romanceを知ったという人もいるんじゃないでしょうか?
今聞いてもテンションが上がる1曲です。
さて、今日は震災後13日目のお話です。今日で第1章は終わりです。
次回からは第2章に入ります。
3月23日
この日は朝から1F(福島第一原子力発電所)へ向かう日でした。装備はタイベック(不織布スーツ)にPVCスーツ(簡単に言えば合羽のようなものです)に全面マスク。こんな装備は通常の発電所の装備でもそうそうありません。その装備のまま車に乗り、J-ビレッジから1Fまで60分かけて車で移動します。移動する道中も震災で道路が寸断されていて回り道をしなければいけない所もあるし、道路の地割れやひび割れは当たり前のようにあって思ったように進めません。通常よりも20分ぐらいは多く時間が掛かったでしょうか。(通常だと40分ぐらいで着く距離です)それでも1時間ぐらいで何とか1Fへ到着しました。
到着して震災後初めて見た1Fの姿は衝撃的としか言い様がありませんでした。通常海側にあるはずの重油タンクが200m先の岡側に流されていて船がありえない場所にあったり、トラック等はフレームが飴細工のように捩れています。そして、爆発の影響で建屋の壁があちらこちらに散らばっていて、事務所の窓ガラスは爆風で割れています。この凄さはきっと文章だけでは伝わらないでしょう(takuiの文章力のなさっと言うのもありますが・・・・・)
消防車や自衛隊の車が無造作に置かれていて建屋の周りは瓦礫だらけ。1号と3・4号の原子炉建屋はむき出しで、4号機に至ってはPCVヘッドが露出しています。この状況を見て誰がここが日本であると思うでしょうか。でもこれが紛れもなく今回起きた震災と津波、そしてこの発電所がもたらした事故の結末なんです。
takuiはその後8ケ月に渡りここ1Fで復興に携わることになります。それについては第2章で紹介して行きたいと思います。
一方家族はと言えば、一月ぐらい埼玉の叔父の所でお世話になり、その後大熊町から連絡があり会津若松に仮の役場が出来たので、町の避難先の一つである福島県の北塩原町へ一月ほど避難し、会津若松市の借り上げ住宅へ移動して現在に至っています。慣れない土地での生活とその他諸々の問題があり大変でしたが、現在は何とか平穏な生活を送ってます。
諸々の問題については紹介できる範囲で今後記事にしていきたいと思ってます。そして、住宅ローンですが、銀行の計らいで1年は止めてもらいました。(もちろんローン再開時は1年分の金利は取られましたが・・・・)1年後には住宅ローンも再開して、現在も住めない建物のローンを払い続けています。
これは地震・津波の被害に逢われた方と状況は同じです。状況はどうあれ借りたものは返さないといけません。住めない建物のローンを払うのは正直つらいです。でも、誰かのせいにするつもりはありません。大熊町に土地を求めて家を建てたのは紛れもなくtakui自身の判断です。それを誰かのせいにして責任転換するのは現実から目を背けるだけで、一歩も前に進めません。
土地を買う・家を建てるという事はそういったリスクも含めて決断すると言うことだとtakuiは思います。もちろん天災だけの問題ではありません。人災も含めてです。
「そんな事言ったら家なんか建てられないよ」と思う人もいるでしょう。でも「リスクを負わない事が人生で最大のリスクである」とスティーブン・R・コヴィー氏も言ってます。まーそれをリスクと感じるかどうかの問題ですね。
takui自身は家を建てることが人生のゴールだとも思ってないんでれは然るべきリスク(言い換えれば乗り越えられるリスク)と考えてます。
これは強がりでも何でもないです。どんな状況になっても(ローンが) 払えると思ったから家を建て替えた訳ですから、震災に遭ってもそれは一緒な訳です。そしてtakuiが家を建て替えた事を後悔したかどうかは第三章でお話したいと思います。
それでは次週より第二章をお楽しみ下さい。
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