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被災者の多くはパチンコばかりしている? [震災]

 GoGo!ランプが光る瞬間が至福の時!

takuiです。こんばんわ

takuiもね ギャンブルが嫌いな訳じゃないです。年に何回かはパチンコに行きますよ。

でも、最近のスロットはいまいち良くわからないので、行った時はジャグラーしか打ちませんけどね。昔はジャグラーを馬鹿にしてたんですけど最近はあのシンプルさが何とも言えないんですよね。

今日は何故こんな話から入ったかといいますと、今朝の新聞でこんな記事を見ました。

「原発避難者、働かずパチンコ」 いわき市長が発言

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120410-00000002-khks-l07

いや被災者がパチンコをやってないとは言わないですよ。でも一国の主とも言える市長の発言としてはどうかと思うんですよね。

「市民の声を代弁した」と言えば聞こえはいいですが、市民の感情を市の代表が現場を確認もせずに(まさか市長がパチンコ屋で被災者を見かけた訳じゃないでしょうから)代弁したという事でしょ?

これって市長がするべき発言ではないと思うんですよ。そりゃ確かに仕事もせずに毎日パチンコやってる人がいれば普通に仕事している人からすれば面白くない話でしょうけど、きっとそれを見ている人も仕事もせずにパチンコやってる訳ですよね。(どうやって被災者とそうでない人を見分けるのか解りませんが)やってる事は一緒なのに一方だけを吊るし上げるのってどうかと思うんですけど・・・・・

そしてそれを代弁する市長って・・・・・・・

まー確実に仕事をしないでパチンコやってる人がいるんでしょうから、こちらとしては言い返す言葉がないですけどね。

でも一を聞いて皆一緒だと思われてもこちらも困るわけですよ。ちゃんと仕事をして自立してる人がいる訳だし、無職でパチンコやってるのはごく一部の人だとtakuiは思ってますから。

いやーこのブログ始まって以来の社会はネタでしたね。(笑)

まー今日のところは勘弁して下さい(爆) どうしても言いたいという訳でもないんですが、この記事が全てだと思われるのもちょっとシャクだったんで・・・・

さて、今日は震災後7日目のお話です。

3月17日

この日ちょっとしたサプライズとショッキングなニュースそして明るい日差しが待ってました。

まずはこの日のお昼ラーメン屋さんが避難者にお昼ごはんのプレゼントです。前にも紹介しましたが、避難所でのご飯は冷たいおにぎりか菓子パンのどちらかです。暖かいラーメンなどは出ることがありませんのでとてもうれしいサプライズでした。

それでも2000人程のお昼ご飯です。takui達がラーメンにあり付けることができたのは午後3時ぐらいでした。どこのラーメン屋さんだったかは覚えてないですが、とんこつスープのおいしいラーメンでした。この日のラーメンは特においしかったな~。takuiもラーメンが好きでどこにでも食べに行きます(takuiはどちらかと言えばあっさりした塩や醤油がメインです)けど、ここで食べたラーメンは生き返る一杯でした。

寒い日に暖かい食べ物を食べる。そんな当たり前の事が幸せに感じる事て草々ないですよ。今回の震災でtakuiは貴重な体験をしたと同時に色々な事を学べたような気がします。

そしてショッキングなニュースですが、今回の震災(津波)で総裁の叔母、従妹、そしてその子供が津波で行方不明であることを知ります。従妹はtakuiとも気の合う妹のような存在です。その従妹が行方不明だと知った時はどうして良いかわからなくなりました。takui達はそこへ向かう足もありませんでしたので「どうか無事でいてほしい」と2人で願うしかありませんでした。

それから彼女達が残念な姿で見つかるまで、しばらくかかることになりますが、その間ずっと彼女達の安否を気遣うことになります。(っあ!言い忘れましたが、この時既に総裁の両親の無事は確認できてました。)

この時を今振り返ってみると、takui達は津波の被害の本当の悲惨さを知らないんですよね。その後TVで見て「こんなに津波の被害って凄かったんだ!」と実感したぐらいなんです。その当時は津波よりもとにかく原子力災害に目が行ってしまっていたので他のことに気を配る余裕がなかったんだと思います。だから津波で行方不明と言っても「すぐ無事を確認できるだろう」程度にしか考えてなかったんです。人が窮地に立ったときいかに目の前の事にしか気を配れないかという典型的な例ですよね・・・・・

さて、この日の夜この避難生活に少しだけ明るい日差しが見える連絡が入ります。無事が確認できた総裁の両親が東京へ非難するという連絡でした。そして、避難する為に車1台空くのでtakui一家で使って良いという連絡でした。以前から埼玉の(総裁の)叔父が「避難するなら家にきたら」と声をかけてもらってたので、移動する足さえあればお世話になりたいと思ってました。そして一緒に行動していたMさんも埼玉の同僚の所に行きたいと言っていたのでtakui一家とMさんは目的地が一緒でした。それで総裁の両親が郡山市を通過する3/18の夜に合流して車を引き取ることで話は纏まりました。皆で「明日の夜にはこの生活から開放される」と希望が見えた夜でもありました。避難生活中この日程「喜怒哀楽」がはっきりした日はおそらくなかったでしょう。


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