SSブログ

こんな形で最終章 [震災]

ブログ更新を止めて約2年、東日本大震災がおきてもう直ぐ1年が経とうとしています。

みなさんおひさ!

いやっもうこの際始めまして!!

本当はこのままブログ止めてしまおうとも思ったのですが、どうしても伝えたいっというか伝えなくてはいけないことがあるような気がして再びこうやって恥を忍んで登場しました(笑)

いったいこの2年間takuiは何をしていたか気になりません??実は

 女性占○師に洗脳されてました!

っという旬なネタはそこそこにブログを止めて1年は別に何をしていたわけではありません。特に理由はありませんが更新する気力がなくなったというのが正直なところですかね・・・・・

さて、タイトルでも書きましたが、これから最終章として再開したいと思います。なぜ最終章かと言いますと、

もう紹介する家がないから 

です。takuiの家は今まで言いませんでしたが、福島県大熊町です。もう紹介するまでもないですが、1年前から世間を騒がせている福島第一原子力発電所のある町です。当然の事ながらtakui一家も避難者となり、現在も避難生活を余儀なくされています。

3月11日以降いったい何が起こったのか?福島第一原子力発電所で何がおこり、takuiはどうしたのか?震災を通してtakui自身が感じたこと、そしてこれからやらなければいけないことは何か?などをこの最終章で紹介していきたいと思ってます。

しかし、Net環境があまり芳しくなく、週に1度程度の更新しか出来ない上に、前のようにお世話になった皆さんの所に遊びに行ってNice!押したり、コメント残したりなどができません。なので皆さんの所へ巡回できないことを前もってお断りしておきます。申し訳ありません。

そして前のように冗談交えた内容じゃないこともお断りしておきます。

まーそれを楽しみにしてる人がいないのは百も承知ですけどね! 

まずは最終章の第1章として震災後takui一家に何が起こったのかを紹介していきます。

言わばtakuiの備忘録といったところですかね。興味のある方はどうぞごらん下さい。

3月11日

14時46分takuiはその時車を運転して発電所近くにあるプラント4というお店の駐車場に着いたところでした。

駐車場に着いた瞬間に車が大きく揺れてます。takuiは「誰か悪戯してるのか?」と思いましたが、どうも電柱も揺れてます。店からは人が走って出てくる姿が見え、目の前に見える建物の窓ガラスが激しく揺れ割れるのを確認しました。

その時初めて「地震だ!」と認識しました。店から出てくる人達は立っていられず座り込んでます。車はさらに激しく揺れ車が横転するのではないかと思うぐらいでした。その揺れが一度おさまりそうになった時、前よりも激しい揺れが再度おそってきました。その瞬間、店の電気は消え、車に乗っていたら横転して危ないと感じる程でしたか、やっと揺れがおさまったのは最初の揺れから5分ぐらいしてからでしょうか「これは徒事じゃない」と直感したtakuiは直ぐに発電所にある事務所へ車で戻ることにしました。

駐車場から出た瞬間僕は目を疑いました。道路はひび割れ、マンホールは500mm程度突き出してます。電柱は傾き道路標識は倒れてさっき通ってきた道だとは思えない程の情景でした。

普通なら5分もあれば十分着く距離なのですが、その時は20分ぐらいかかったでしょうか、何とかたどり着き皆で無事を確認し合いました。数名発電所内に残っていましたが、その人達も程なく事務所に戻ってきて全員集合して事の成り行きを見守ってました。

その日は寒い日で外にいるのはつらい日だったのと、少しでも情報がほしいと思い皆で車に乗りTVを見ることにしました。車のエンジンを掛けTVに写ったのは千葉県の石油コンビナートの火災の映像でした。「すごい事になってるな」と皆で話していましたが、その時はまた気付いていなかったのです。自分のいる現場がもっともひどい事になっていることを・・・・・・・・

それから1時間弱ぐらいした時でしょうか解散命令がでたので家に帰ることになりましたが、渋滞で発電所構内から出ることが出来ません。そんな中車に乗っていた僕を呼び止める人がいます。窓を開けて話を聞くと「DGが止まった。バッテリーを準備してケーブル引かないといけない。電気屋は出来る限り残ってほしい」という内容でした。(今思えばその時津波が来てたんですね。当時はそんな事思いもしまでんでした)その時僕一人なら残ったかもしれません。でも同乗者がいたので「わかった後で来る」と言ってその場を立ち去りました。(もちろん家族が心配なので戻る気は毛頭ない訳ですが・・・)家に着いたのはそれから2時間程してからです。家自体は大した被害はありませんでしたが、家の中はめちゃくちゃでした。それでも総裁が1階だけは綺麗に片付けてくれて何とか生活できるようにはなってました。しかし電気がないので夜は何もすることができません。仕方なく家族全員でその日は寝ることにしたのです。

今にして思えばそれが不運の始まりでした。電気がなくても車でTVやラジオ等で情報を仕入れるべきだったのです。何しろ自分の働いている発電所で世界を揺るがす大事件が起きていたのですから・・・


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:住宅

下手な知識が判断を鈍らせることもある [震災]

こんばんわ

今日で震災が起きて1年となりました。震災を忘れられず未だに去年と変わらず震災を引きずって生活をしている人、震災から立ち直り新たな生活する人それぞれの1年目を迎えたことと思います。

takui自身はどちらなのか?それは後々お話したいと思います。それでは震災2日目の話です。

3月12日

その日は朝6時頃目が覚めました。相変わらずライフラインは復活してません。しかし防災無線がなっています。「町民の皆さんは今すぐに最寄の公民館へ移動して下さい。」という内容の放送でした。

この時点で何が起きているのはさっぱりわかりません。唯一わかっているのは「非難指示が出ている」という事実だけです。取り合えず必要最小限の荷物を持ち近くの公民館へ車で移動しました。そこで使い捨てのサージカルマスクを手渡され、「今からバスで都路地区(村田市)へ非難します」と告げられました。都路地区というのは大熊町の西の隣村(昔は村でしたが、今は統合され村田市の都路地区となってます)です。その時誰もが原子力発電所で重大な事故が起きてるとも思ってませんし、2・3日もすれば戻れると思ってました。自家用車で移動すると避難所で受け入れてもらえないということだったので、仕方なく車はそこに乗り捨ててバスで隣村まで移動することにしました。(バスの中で津波に襲われた町民の方の話を聞き津波が町を襲ったことを聞きましたが、それが発電所にまで到達しているとは思ってもみませんでした)

バスで移動している最中にやっと携帯電話が通じるようになり、そこで総裁の家が津波で崩壊し、両親が行方不明であることを知らされました。(後に両親は避難所に非難していて無事であることを知りますが)恐らくその事実を知った総裁の心境はtakuiの想像を絶するものだったと思います。その時にようやくこの地震の被害は尋常でないことを知ったのです。

発電所の状況がわかったのは避難所である都路地区の古道体育館へ着いてTVを見た時でした。体育館に着いて場所を確保して直ぐにtakui Jr.の中学校時代の友達二人が親とはぐれて避難していることを知りtakui家で引き取る事にしました。家族4人+2人での避難生活の始まりです。

総裁は近くの店へ走り避難中に必要な生活用品の調達に走り回り、takui Jr.とその友達達は物資で届いた毛布の調達に悪戦苦闘し、総裁2号は近所の体の不自由な方の介護と一生懸命に働きました。そしてtakuiは避難所にTVがあることを知り情報を仕入れるためにTVを見ることにしました。そこで見たのは「注水機能が停止しPCV(原子炉圧力容器)の圧力が上昇している」という内容の報道でした。「だったら何でSRV(主蒸気逃がし安全弁)動作しないんだ?」って考えてました。SRVは原子炉の圧力が上昇すると自動的に圧力を逃がす為のバルブです。 恥ずかしながらこの時takuiは電源損失という事実を知らなかったのです。なので手動でベントを行ってる事が不思議でなりませんでした。それでも無事1号機のベントが成功したというニュースを見てTVを見るのを止めました。自分の中で「何とか危機は脱したな」と思ってしまったからです。その後総裁がTVを見て「何だか建物が爆発したみたいよ」と言った事が理解出来ませんでした。takuiはその後直ぐにTVのある場所まで戻り再びニュースを見ると1号機が爆発する映像が流れてました。takuiの頭は真っ白になりました。「なぜ?なぜ?」何度問いかけても答えが出ません。ニュースで「水素爆発」と聞いても「何で水素?可燃性ガスを処理する装置あるじゃん!それにホウ酸水注入装置は???」っと今考えればお気楽な考えばかりしてました。その日の夕方「今非難している場所も危険が及ぶ可能性があるのでさらに西へ非難します。」という連絡がありました。結局非難したのはその日の夜9時ぐらいでしょうか、バスに乗り船引町の小学校へと再避難したのです。


nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:住宅

takuiの隠し子は息子の友達 [震災]

わたあめ大好きチョッパーが大好き!

takuiです。こんばんわ

なんでしょうね。オープニングが昔に戻りつつありますね(笑)

今日は少し飲んでるからかもしれません(爆)それでは震災3日目のお話です。

3月13日

船引小学校へ移動して最初の朝を迎えました。小学校での生活はそれ程苦になるものではありませんでした。雨風は凌げますし、暖房もあります。ただ、食料は思うように届きませんでした。朝ご飯が10時頃、お昼ご飯が3時頃、晩御飯が8時頃でしたでしょうか。それでも全然苦になるような事はありませんでした。

町では主要なお店が営業していたので家族全員+2名で必要な物資を調達しに行く事にしました。まずは携帯電話の充電器がなかったので一番に調達しに行きます。そして歯ブラシ等の生活必需品を調達しました。 

不思議なもので買い物している時は発電所の事故や自分が避難者であることを忘れる事ができるんですよね。皆で楽しく買い物することが出来ました。

午後になり、takui Jr.の友達2名の両親と連絡が取れて、両親が避難所へ迎えに来ました。両親は泣いて言葉にならないようです。それはそうでしょう。ご両親にすれば耐え難い2日間だったと思います。手塩に掛けた息子が行方不明になり2日間も音信普通になるのですから・・・・

takui jr.の友達はそれぞれの両親と無事再開し親元へと帰って行きました。実は総裁とは「このまま両親と会えなかったら家に子供が2人増えるな。それでもいいか?」などと話してました。総裁も「あんたの隠し子がいたと思えばなんとかなるわよ」と冗談を言ってましたが、正直両親が迎えに来たときは二人ともホッとしたのも事実です。そして再開した親の姿を見て「一緒に行動して面倒を見て良かった」とも思いました。

そうして震災後避難してからの初めて家族4人で過ごす夜となりました。その時の静けさは今も忘れられません。Takui Jr.の友達2人がいてくれて賑やかだったことがどれだけ心癒されたか初めて思い知りました・・・・・

時間にしてたった1日でしたが、明るく振舞ってくれたあの2人がいた事でtakui一家は心癒されていたのですね。面倒見ているつもりでしたが、こちらが面倒見てもらっていた気がする夜でした。

そしてその日は発電所のニュースも目新しいものがありませんでした。(ような気がするっというか記憶が曖昧っというか・・・・・)


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:住宅

3度目の避難・そして再開 [震災]

意味のない事など起こりはしない」いや違います。「起こった出来事に意味を見出すのです。」

takuiです。こんばんわ

今何か違うブログに間違って来たと思った方

間違いなくtakuiのブログですよ(爆)

いや何それさ、今「Jupiter」がTVで流れてたんですけどね、そんな歌詞が出てきたので「それは違うよ!」って思ったわけですよ。別に深い意味がある訳じゃないんですけどね・・・・・

さて、今日は4日目のお話です。もうしばらく避難生活のネタが続きますのでもうしばらくお付き合い下さいませ。

3月14日

この日朝起きて別の避難所へ移動する事を聞いたのは朝8時ぐらいだったと思います。小学校が再開するのでこの避難所を移動すると言うことでした。避難先はここから更に西の三春町の工業地帯になるそうです。takui一家がいたのは2階でしたが、1階から順に避難先へ移動し移動出来るようになったら各部屋へ連絡しに行くと言っていたので、朝食を食べてからゆっくり移動しようと思いました。(朝食配布が10時ぐらいなのでそれからでも十分間に合うだろうと思いました。)ところが待てど暮らせど連絡が来ません。1階には既に人がおらず、2階も一部を除いて人がほとんどいませんでした。係の人に話を聞くと皆我先に荷物を纏めてバスへ乗り込んだらしく、これからやっと次の避難場所へ送ったバスが戻ってくるとの事でした。takuiは別に慌てる必要もないと思ったので「教室にいますから準備が整ったら連絡してほしい」と伝えて避難している教室へ戻りました。

その時お昼過ぎぐらいでしょうか。Takui一家と2家族でTVを見ていた時に衝撃の映像を目にしました。

それが3号機の水素爆発でした。

3号機の原子炉建屋の2倍近い煙が上がっている映像でした。建屋自体が約50mありますので、あの煙は大体150mぐらい上がっていたと思います。この映像を見た時に「これは当分帰れないな」という思いと「無理してでも車で移動すればよかった」という後悔でいっぱいでした。

それから程なくしてバスが到着し、3回目の非難所三春町の「デンソー東日本」へと避難することになりました。

デンソーはその年の4月開業予定でまだ開業前の工場を避難所として開放してくれた場所です。2000人ぐらいがその場所へ避難していました。そこでこれから先行動を共にする会社の仲間(ここではMさんと言うことにしましょう)と再会することになります。

Mさんはtakuiより少し歳は上で頼りになる仲間です。この避難生活の中takui的にはとても心強い存在でした。そして2人で今回の事の成り行きを話し合いましたが、やっぱり答えが見つかりませんでした。

答えの出ないことを考えても仕方がないということで、takui一家とMさんで毛布等の物資を確保しつつ夜に備えることにしました。その日の夜の事は今でも忘れられません。避難先であるデンソーは工場というよりは出荷前の製品倉庫のような場所で床はコンクリート打ちっぱなしで壁も雨風を凌げる程度(場所を借りておいてそんな言い草をするのは大変失礼なことは承知の上ですが・・・)の建物でしたので夜の寒さは尋常じゃありません。寝るにしても底冷えするので体温は奪われ寝ても直ぐ目を覚ますぐらいです。とにかく子供たちだけでもと思い毛布やマットなどを何重にも敷いて子供たちだけは寝せましたが、自分たちはとても寝られる状況じゃないので、ストーブの前などで暖を取りながら一夜を過ごしました。嘘大げさなく「このまま夜が明けることはないんじゃないか」と思うほどでした。きっと避難生活の中でこの日ほど夜が長かった日はなかったと思います。

それでも寝ないと体が持たないと思ったので、少しでも寝ようと子供たちに体を寄り添って暖を取りながら寝ることにしました。


nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:住宅

たまには旬なネタでも [震災]

AKB48のあっちゃんが卒業するというニュースを見て号泣する娘を見て号泣する。

takuiです。こんばんわ

いやー今日一番びっくりしたニュースですね。あっちゃんファンの総裁2号はショックのようです。

6年間もAKBのセンターを守ってた訳でしょ?サッカーで言えばセンターフォアード的存在ですよ。

野球で言えばセンター・・・・・・

( ̄_J ̄)ん?

いや違うやっぱりエースって言うぐらいだからピッチャーだな。

バレーで言えばセッターかリベロ・・・・・・いやこれでは縁の下の力持ちだな。AKBで縁の下の力持ちと言えば・・・・・[以下自粛]

やっぱりバレーで言えばWスパイカーか?

さおりんかわいいもんね。アタック打った後に女の子座りする辺りが全国の男心をくすぐるというかtakuiの心を鷲掴みしますし・・・・・

バスケで言えばフォ・・・・・

もぉいいよ!

もっと早い段階で誰か止めてくれれば良いのに(笑)

まーとにかくえらいこっちゃって事です(爆)

さて、今日は震災後5日目のお話です。

3月15日

その日朝起きて直ぐに始めたことがあります。それはダンボール探しです。とにかくこの底冷えを解消しない限りこれから先夜寝ることができません。しかし他の人も同じことを考えてます。やっぱりダンボールを探してる人達がたくさんいました。

そしてそんな声がとどいたのでしょうか?下に敷く厚さ2mmぐらいのシートが支給されることになりました。そして毛布の追加支援がありそれを確保することで何とか寒さを凌げるかと思われました。

そしてこの日takuiの記憶にはないのですが、たぶんこの日が4号機の爆発の日だったと思います。なぜ記憶にないかというと、takuiの中では4号機は爆発しないという固定概念があったからです。

4号機は地震当初定期検査中で全燃料を炉心から取り出していました。燃料を取り出していたということはRPV(原子炉格納容器)が開放されていることを示します。原子炉が開放されていて燃料がないのだから大丈夫と考えるのは原子力発電所に従事して、ある程度知識のある人であれば容易に想像できます。

そういった意味で4号機の爆発はtakuiの記憶にはなく、それを映像で見ていても3号機の爆発だろうと勝手に想像してしまっていた訳です。(その後3号機の水素が4号機へ流入して爆発したことを知りますが・・・・・)

ちなみに2号機の(下部への)爆発も後に知ることになります。

さて、その日だったか次の日だったかはよく覚えてませんが、雪が降った記憶があります。外の寒さは容易に想像できると思いますが、コンクリートの上にブルーシートと薄さ2mm程度のシートの上で生活するのは想像を絶するものでした。室内とは言え暖房が行き届いているわけではありません。空調設備はあるのですが、何しろ2000人が入っていてもまだ余裕がある広さです。それでも外にいるよりは全然良かったのですが、底冷えが頭を悩ませます。

それでも日中は毛布を床に敷いて座っていれば何とか凌げます。暖かい飲み物でもあれば何とかなるのかもしれませんが、与えられる飲み物は水だけです。ポットはありましたが、授乳期の赤ちゃんが優先ですのでそれを奪って飲む訳にはいきません。もちろん自販機もありませんでした。

なのでこの15日から避難所を出る18日までがこの避難生活で一番苦労した日だったと思います。それでもtakui一家とMさんは4日程度でしたが、ここに数週間滞在した人もいる訳ですからその方たちは本当に心身共に困憊したことと思います。

後で聞いた話ですが、支給される食事が1日に1食の避難所もあったようです。takuiがいた避難所は量の問題はあれ3食常に頂いてました。その点ではラッキーでした。支給されるおにぎりは冷たくて硬いおにぎりでしたが、その時はものすごく美味しく感じられました。そして「食べ物を粗末にしちゃいけない」と身をもって体験したのと同時に「人は一人では生きていけない」ことを実感できた貴重な体験だったと思います。その気持ちは1年経った今でも忘れてませんし、今後も忘れることはないでしょう。

そしてその日も寒さと眠気と戦いながら朝を待つことになります。でもやっぱり眠気が勝ってしまうんですよね(笑)


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:住宅

♪たった一度きりの人生を・・・♪ [震災]

君と出会えた愛しき人生を

takuiです。こんばんわ

音速ラインの「心のままに」

<iframe width="560" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/pOLPsJWWUi8" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

2月に発売されたニューアルバム「Alternative」に収録されてる曲です。

onnsoku.jpg

相変わらず刹那いメロディーラインと心にグッとくる歌詞最高です。

まだ聞いたことがない人レンタルでも良いから聞いてみて下さい。最悪youtubeでも良いから。

これからチョクチョクtakuiお勧め楽曲入れてきますのでヨロシクです(笑)

さて、今日は震災6日目のお話です。

本編はこちら


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:住宅

被災者の多くはパチンコばかりしている? [震災]

 GoGo!ランプが光る瞬間が至福の時!

takuiです。こんばんわ

takuiもね ギャンブルが嫌いな訳じゃないです。年に何回かはパチンコに行きますよ。

でも、最近のスロットはいまいち良くわからないので、行った時はジャグラーしか打ちませんけどね。昔はジャグラーを馬鹿にしてたんですけど最近はあのシンプルさが何とも言えないんですよね。

今日は何故こんな話から入ったかといいますと、今朝の新聞でこんな記事を見ました。

「原発避難者、働かずパチンコ」 いわき市長が発言

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120410-00000002-khks-l07

いや被災者がパチンコをやってないとは言わないですよ。でも一国の主とも言える市長の発言としてはどうかと思うんですよね。

「市民の声を代弁した」と言えば聞こえはいいですが、市民の感情を市の代表が現場を確認もせずに(まさか市長がパチンコ屋で被災者を見かけた訳じゃないでしょうから)代弁したという事でしょ?

これって市長がするべき発言ではないと思うんですよ。そりゃ確かに仕事もせずに毎日パチンコやってる人がいれば普通に仕事している人からすれば面白くない話でしょうけど、きっとそれを見ている人も仕事もせずにパチンコやってる訳ですよね。(どうやって被災者とそうでない人を見分けるのか解りませんが)やってる事は一緒なのに一方だけを吊るし上げるのってどうかと思うんですけど・・・・・

そしてそれを代弁する市長って・・・・・・・

まー確実に仕事をしないでパチンコやってる人がいるんでしょうから、こちらとしては言い返す言葉がないですけどね。

でも一を聞いて皆一緒だと思われてもこちらも困るわけですよ。ちゃんと仕事をして自立してる人がいる訳だし、無職でパチンコやってるのはごく一部の人だとtakuiは思ってますから。

いやーこのブログ始まって以来の社会はネタでしたね。(笑)

まー今日のところは勘弁して下さい(爆) どうしても言いたいという訳でもないんですが、この記事が全てだと思われるのもちょっとシャクだったんで・・・・

さて、今日は震災後7日目のお話です。

本編はこちら


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:住宅

ガンダムキター [震災]

 キタ━━━━( * )゚∀゚`)v━━━━!!!

等身大ガンダム再び

キタ━━━━( * )゚∀゚`)v━━━━!!! 

takuiです。こんばんわ

次こそは見たいはなーそして土田さんとヤンキー座りでガンダムバックに写真取りたいな(笑)

ア・バオア・クーもあるらしいじゃん!さすがに実物大は無理か???

どうせなら等身大ビグザムも見てみたいな・・・・・

さて、今日は震災後8日目のお話です。

本編はこちら


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:住宅

takuiはエモがお好き [震災]

ヘッドバッティングしながら聞きなさい!

takuiです。こんばんわ

今日本のエモの代表言えば間違いなくこのバンドです。

ONE OK ROCK(ワンオクロックと読みます)の「完全感覚Dreamer」です。結構前の曲になりますが、takuiが初めてONE OK ROCKを知ったのがこの曲です。イントロから脳天を突き破る程のインパクトで、サビまでにはある意味エクスタシーに到達できます(爆)

ちなみにVo.のtakaの両親は両名とも超有名な歌い手さんです。(知りたい方は調べりゃすぐ解りますって。)そしてtakaの弟も別なバンドでVo.やってます。こちらも荒削りながらなかなかセンス良いというか兄をリスペクトしてる感がありますね。

まーこのバンド一言で言えば

かっちょえーです(笑)

この曲は「Nicheシンドローム」というアルバムに収録されてます。

今後オープニングネタに困った時にこのシリーズで繋ぎますのでよろしくです(笑)

さて、今日は震災後9日目のお話です。

本編はこちら


nice!(1)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:住宅

2日でラーメンを8杯食べてみた [震災]

「ラーメンは嫌いじゃないよ。むしろ好きな方。でもね、貴方のラーメン好きには付き合えないわ」

っと総裁に言われたtakuiです。こんばんわ

いやー行って来ましたよ。福島ラーメンショー

http://www.fct.co.jp/event/ra-men/

全国の有名所9店と地元郡山のコラボラーメンの全10店舗が一同に並ぶラーメンイベント!

ラーメン好きにはたまらないイベントです。総裁と2人で4日5日と2日かけて行ってまいりました。

2日間で食べたラーメンは2人で8杯です。(どこのラーメンを食べなかったかは内緒)期待以上のラーメンもあれば、期待を見事に裏切ってくれるラーメンもありました。

takui的に一番美味しかったのは「麺屋宗」ですね。鳥と魚介のダブルスープは基よりダブル塩だれの奥深さが何とも言えなかったです。そして炙りチャーシュー!イベントなのに手を抜かない店主の心意気に脱帽です。「せたが屋」も捨てがたかったですが、出来ればひるがお(塩)を食べたかったかな。

良い意味で期待を裏切ってくれたのが「真武咲弥」基本味噌は食べないtakuiですが、ここは美味かった。初めて味噌でスープ飲み切りました。札幌に行く機会があったらもう一度お店で食べてみたいな。

こうして2日間に渡ってラーメン尽くしのtakuiと総裁ですが、最後に総裁に言われたのが冒頭の言葉です(笑)

まーそりゃそうですわな。さすがのtakuiも後二杯食べれなかったですから(爆)

でもちゃんと2日間付き合ってくれた総裁に洋服3枚買ってあげましたよ。

まー母の日も兼ねてですけどね!

さて、今日は震災後10日目の話です。takuiの避難生活最後の日となりますので是非ご覧ください。

本編はこちら


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:住宅

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。